1999

2010年09月14日

「1999」第2章 - 第5話「荒井」

 ●月×日18時25分。

 僕はハピネスビルディングの前に立っている。
 財布の中には「鈴木一郎」名義の運転免許証が入っている。もちろん偽造品だ。厚紙の上に光沢紙を貼り付け、イラストレーターでそれらしく自作したものを印刷したものである。最近免許証にICチップが導入されたため、厚さを調整するのがちょっとやっかいだった。プロには簡単に見破られてしまうだろうが、素人の目はごまかせる。

 僕はビルの中に入り、階段を昇った。エレベーターは故障しているらしく「使用不可」の張り紙がしてある。シケたビルだ。エレベーターのメーカーを確かめたら、やっぱりシ○ドラー社製だった。

 4Fについた僕は、辺りを見渡した。踊り場の左側にドアがある。ドアの向こうが教団の事務所だろう。ドアの脇には、小さなボタンが取り付けられており、その下に「御用の方はボタンを押してください」とある。

 僕はボタンを押した。

 <ビー>という、不吉な音がドアの向こうから聞こえた。

 しばらくするとドアが開き、中から訝しい顔をした女が出てきた。「宇宙には真理など存在しない」と確信している懐疑主義者の顔だ。女は、

「何か御用ですか?」
 と問うてきた。

「鈴木一郎と申します。本日、入信の手続きをする予定なのですが、ええと、荒井さんはいらっしゃいますでしょうか?」
 僕はなるべく丁寧に答えた。

「あーっ。鈴木さんですね。話は荒井から聞いております。どうぞ、中へどうぞどうぞ。」
 どうやら女は、僕を信用したようだ。

 事務所は、パーティションによって2区画に区切られれていた。女に案内され、僕は奥の部屋に通された。そこは殺風景な部屋だった。長机と椅子が数脚、それにホワイトボードと観葉植物があるだけだ。前に行ったセミナーの会場に似ている。
 窓には陽に焼けて黄色くなったブラインドがかかっており、その隙間から夕陽が差し込んでいた。

 中年女が部屋を出て行くと、入れ替わるように荒井が入ってきた。

「申し訳ない。少し遅れました。」
 荒井は早足で歩いてきて、僕と対面になるように座った。

 荒井は長身で痩せ型の男だ。フレームの無い眼鏡をかけており、鼻筋が通っている。なかなか整っているのだが、なぜか対峙するものを不快にさせる顔立ちである。

「こちらに入信の際に関する注意事項が明記してありますので、目を通してください。問題なければ、下の記入欄にに住所と氏名を書き、判をお願いします。
 本日印鑑はお持ちでしょうか?」

「あ、ハイ。一応…。」
 こんなこともあろうかと思い『鈴木』の認印を購入済みである。ダイソーで。

 書類には細かな字でびっしりと、細かなことが書かれていた。当然のことながらこんなものを読む気にはなれない。
 この手の書類を見ると思うのだが―――ビデオレンタル店の利用規約だとか、携帯電話の契約に関する同意書だとか、アプリをインストールするときに出てくる、同意ダイアログだとか。こういうやつをいちいち真面目に読んでる奴って、この世に存在するんだろうか。

「契約の際には注意事項をよく読まないとトラブルの元になる」と主張する生真面目な奴もいるが、馬鹿正直に全部読んでいたら、書類に目を通すだけで人生が終わってしまう。紙に穴が開くほど精読したところで、トラブルを確実に避けられるとは限らない。トラブルというやつは、どんなに周到に備えていても起きるときには起きるものだ。
 もし本当にヤバい事になったら、トンズラすればいい。どうしても逃げられないようなら諦めるしかない。その上で、災難に遭わせた奴らに、十倍返しの復讐をすればいいだけの話だ。これが僕の注意事項や同意書に対する基本的なスタンスである。


 ていうか、今はそんなことはどうだっていい。


 僕は書類に「鈴木一郎」の名前と偽の住所をつらつらと書き連ね、判を押し、荒井に手渡した。
 ためらいや淀みは一切ない。この瞬間のために、僕は「鈴木一郎」と偽住所の書き取り練習を、1286回もしたのだ。
  
「はい、ありがとうございます。」
 荒井は疑うことなく書類を受け取り、クリアファイルにしまった。
 そして、

「何か質問はありますか?」
 と聞いてきた。 
 この質問こそ、僕が待ち続けていた言葉だった。

「ええと…実はこちらの教団に、友人がひとりいるはずなんです。僕は、その友人にセミナーに参加するよう勧められたんですね。名前は『柿原』といいます。
 荒井さんは、柿原を知っていますか…?」
 
 僕は慎重に言葉を選びながら探りを入れた。可能な限り注意深く。善良で、少々抜けたところのある、どこにでもいるような小市民を演じ、あえて柿原の死については知らないことにした。


「…柿原…さん…ですか。」
 荒井はこめかみに右手の人差し指と中指を当て、目を細めて呟いた。柿原について思い出そうとしているのか、それとも、思い出そうとするフリをしているだけなのか――――。僕は荒井を観察することに、全ての注意を集中させた。

 目、鼻、唇の動き、仕草、表情のニュアンス。どんな僅かな変化も、見逃すわけにはいかない。

 
「すいません。わかりません。」
 しばらくして荒井はそれだけ言い、苦笑した。

 手強い相手である。荒井は「わからない」としか言わなかった。視線や表情にも不自然なところは認められない。


「他に何かありますか?」
 そして荒井は丁寧だが、強い口調で続けた。早くこの場から立ち去りたい、というふうに見えなくもない。だとすれば、柿原について触れられたくない理由が荒井にはある、ということだろうか。

 残念だが、これ以上の深入りは危険だ。しつこく問い詰めれば、それなりの成果は得られるかもしれない。だが、現時点でマークされるのだけは避けたいところだ。あくまで今は、僕を一般信徒と思っていてもらわなくては困る。


「ええと、私はこれで、NT教団に入信したことになると思うのですが。具体的には何をしていけば良いのでしょうか…?」
 僕は話題を変えた。

「なるほど。そこに疑問を持たれるのは、当然のことと思います。」
 心なしか、荒井の表情が和らいだ気がした。

「当教団は、月に2度新宿支部で『定例会』を行っています。とりあえずこの定例会に参加して、他の信者さんたちと交流してください。そうすれば何をすればよいのかは、見えてくることと思います。」

 荒井は簡潔に説明した。「教団」というからには、瞑想とか断食とか滝に打たれるとか、そういう修行じみたことをやらされることと覚悟していたが、そういうわけでもないらしい。


 手続きを終えた僕は、ハピネスビルディングを後にした。




 残念ながら、これといった収穫はなしである――――。



posted by 魔王源 at 12:00| Comment(0) | 第2章
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前:

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント: